wondermoony’s diary

日々思うことや好きなことを生意気に綴っていきます。

不満が生まれる瞬間

こんな光景をよく目にする。

上司が部下を呼びつけて、一方的に叱る。

しかしこれは、私からみれば

どうも不自然なのだ。

 

通常、「不満」が生まれた瞬間、

不満を「感じた本人」と

不満を「向けられた相手」の

双方に責任が生じるからだ。

その責任は、ちょうど50:50。

どちらが悪いということは絶対にない。

 

どんなに相手が無能でも、だ。

無能である所以は、指導者の指導力不足にある。

指導者が無能な会社に勤めている、あなたが悪いのだ。

不満なら、さっさと理想的な仕事を始めればいい。

できない?なぜ?

それはあなたに退社する勇気自信能力がないからでは?

ほら、あなたに3つも責任が生じている。

 

 

 

人がなぜ不満に思うのかといったら、

「自分が正しいのに、相手が間違ったことをしている」

と感じるからだ。

逆に、なぜ不満を持たれるかと言ったら

「相手の正しさにそぐわない行動をしている」

と感じられるからだ。

 

しかし、ここにも違和感が。

「正しさ」って一体何なのか。

仮にはっきりと自分の正しさを主張できたとして、

それは何によって保障された正しさなのか。

 

例えば。

Aさんが、Bさんに挨拶した。

Bさんは、会釈をするだけで去っていった。

AさんはBさんに対して

「なんて無愛想な人だ。挨拶されたら、挨拶を返すのが、人間として当たり前だろ。」

と思った。

この場合、AとBどちらが正しいのか、

はっきりと答えられる人はいるのだろうか。

 

おそらく、多数決でいけば

Aが正しいと思う人が多いだろう。

それはなぜかというと、

皆、「常識」という基準で考えるからだ。

 

でも、一度考えてほしい。

「常識」とは、何なのか。

六法全書のどこに記載されているのか。

世界で統一された決まりなのか、

日本国内でのみ適用される決まりなのか。

 

この問いに答えられる人はいない。

なぜなら、「常識」とは曖昧なものだから。

人それぞれ基準があって、

誰かと全く同じ「常識」を持つ人はいないのだ。

 

それに気づいていなかったのであれば、

今覚えてほしい。

でも、それを知っていたのであれば

「常識」という基準で考えるのは、なぜ?

「知っているけど自分にとって都合の悪いもの」を

見て見ぬふりをして「Aが正しい」とか言っているのか?

 

結局、不満というのは

感じた本人の「怠慢」なのだ。

自分が正しいから、考えを改める必要が無い。

相手が変わる方が優先。

そんな考えが根底にあるから、

一方的に叱ることができるのだ。

 

不満が発生したとき、

責任が50:50になると、先程言った。

しかし、もしその不満を

「叱る」という形で相手に伝えてしまった場合、

その比率は変化する。

 

自分の責任:相手の責任

これがなんと、

70:30、いや、100:0にもなりうるのだ!

叱るという行為だけで

自分の責任が重くなってしまう。

 

それはなぜか。

やはり、怠慢によるものだからだ。

 

双方が直すべきところ、

自分だけは何も直さない、

相手にのみ直す必要性を押しつける。

これが実は「怠慢」という形で

自己の責任に加算されるのだ。

 

私も、多くの歳上の人に会ってきて、

様々な「叱り」を受けてきた。

ということは、

自分の責任が軽くなるという経験を

何度も積んできたということ。

歳上の方が怠慢であるという状況が

多く積み重なってきた。

 

 

だからこそ、自信が持てるのだ。

 

 

相手が勝手に怠慢な人間に

成り下がってくれる。

「私は何も変えられない、どうしようもない人間だから、あなたに改善をお願いすることしかできない」

と、面と向かって話してくれる。

 

これほど自尊心が満たされるイベントは他に無い。

 

日々、怠慢な人間に会うたびに、

幸せ、とまではいかないが、

ほんの少し、嬉しくなるのだ。

 

自分に厳しく、他人に甘い。

自己評価はそんなところだが、

客観的にみれば、

自分に甘く、人に厳しいのかもしれない。

 

でも、どちらが正解とかはない。

どう考えたところで、

どう主張されたところで、

それは、その人の「常識」に過ぎないからだ。